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             自由と引き換えに得たものは? 


夏目漱石の「我輩は猫である。」の主人公が猫でなく、犬だったら、 はて ? 名作と
なり得たでしょうか ?  この小説の面白さは「有り得ないこと」が「有り得ること」に、
現実離れしたことが現実味のある話へと展開されています。 有り得ることが有り得
ない現実の話など、新聞の社会面(政治、経済面でも)に幾らでも登場してます。 .
法や秩序、摂理良識があるべきなのに無い事件、事故のはなしです。       .

漱石の猫は家中を勝手に出入りをしているが、サザエさん宅のタマのような家族の
一員ではない。単に同居しているだけで、飼い猫でもないから、主人やその家族から
擬人化もされず、あれこれと指示もされない。話し掛けられたり愛されたりもしない。
 だから、名前も無い。その家の主人や、それを取りまく人々をどのように見ようが批評
しようが勝手である。それゆえに人間社会の奇妙奇天烈、愚かさ、滑稽さが見える。
かく言って、この猫、理性的客観的に現実に対応しているかと云うと、そうでもない。
さほど利口でもなく、これといって特技、特徴はない。はじめから名も無くただの駄猫
                                      として登場している。
もし、犬がその家に、いつの間にか居ついたとして、食事に有りつければ、そのうち嫌
でも名前ぐらいは付けられる。そして人との関わりが生じてくる。屋内であらうが屋外で
あらうが居場所を与えられ、尾を振って媚びれば主人にその家族に認められ同居を 
  許される、そして主人の指示に従い、その家の家風習慣に従う。従順なれば愛される。
                                      こんな犬いくらでも居る。
 この様な犬では、とても漱石の小説の主人公になれそうもない。他の小説家の主人公
にとなれば、不幸を背負いて苦労多い悲しい物語がよいのでは、人間社会の片隅に
  ひっそりと生きる健気な気弱な犬の話となるでしょう。「我輩は」などと自己を主張出来る
                                          ような犬ではない。
  愛猫家には失礼ですが、社会性が無い(群れの動物でない)猫には、その家の主人を
有り難い飼主などとは思ってもいない。猫にはテリトリー(縄張り)意識はあっても、 .
グループ(群れ)の秩序(社会的順位制)はない。地位や身分とは無関係であり仲間が
居なくても平気である。だから面白い、漱石の猫はビールを呑んで、酔っ払って甕に
   落ちて死んで物語は終りとなる。「日月を切り落として天地を粉セイして不可思議な太平
 に入る。我輩は死ぬ。死んで太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥
  陀仏 南無阿弥陀仏、ありがたい、ありがたい。」と言って終りとなる.。でも悲しい話では
                                   ない。死んで太平を得たのです。.

人間社会に隷属する媚びる犬は、主人飼主に忠実で主人批評などもっての外、自ら
運命を人に委ねその家の家族(群れ)の中へ隷属し、平和に甘んじているが、たとえ、
媚びず毅然として主人のみに従順忠実な犬でも人に飼われている以上、その家の、
家風習慣に従っている。人の行為行動に興味を持ちそれを受け入れる習性はどの様
な犬でも持っている。犬は本来、人の嫌がることはしない。人の喜ぶことを率先して
行うのです。人と伴に暮す様になり犬と呼ばれる様になった時から、犬の運命は人に
委ねなれ人との絆に結ばれ、人との幸、不幸をともに荷うことになったのです。犬は
けっしてこの絆を自ら断ち切ることはありません。人に見捨てられぬ以上、野生に
帰ることはないのです。自由であるためには戦わねばなりません。戦いを続けるに
は、大変な苦痛を伴い孤独に耐えねばなりません。自由の辛さ、恐ろしさから開放
                         されて犬と呼ばれる様になったのです。
この犬達が飼われている人間社会も、自由であれと戦いつづけています。人々は
孤独な戦いの中で暮しているのです。過っては絆の社会でしたが、その絆を断ち
切って民主主義、自由で平等、豊かな世界を目指して人々は戦った来ました。 .
でも、戦いに疲れ自由からの逃走を求める人達は、新たな権威による絆を求めた
のです。あるいは自由や個人的自我の統一性を破壊する絆によって服従、依存
 の一種の安定感(体制的)を求めたのです。大きな戦争の後この日本は平和な .
民主主義自由な国家となりました。悪しき絆の制度は排除されましたが、大切な
                      残しておきたい絆も失われつつあるようです。

野生を消され、人との絆に結ばれた犬は、その家の家風習慣が権威(リーダー)ある
秩序(序列の中での生活ならば何の不安も無く分に応じた日々を過ごすことでしょ
 うが、自由で平等、穏やかな平和の家庭となった今日、家族の絆に変化が生じて
来ました。リーダー不在の身分不明瞭な平等家族です。そうした中では犬は不安
 な毎日を過ごすことになります。そして、権威を求め秩序ある世界の再興を願いま
す。しかし、誰もリーダーとなる者いません、なれば、この犬が、それはとても無理
不安な毎日を送っているのに、力不足は目に見えています。でも、犬は権勢を求め
ます。権勢症候群の犬達です。その他、犬の生態を無視しての飼育、特に込み合
いによるシンク状態によるストレス弊害などの問題犬の多発です。咬む犬達です。
平和で楽しい家庭も、こうした犬の登場で、あっけなく破壊されてしまいます。  .

 どうも話が面白くない。楽しい犬の話となると犬と人との楽しい関わりとなる。人と
犬との良き絆の話となる。絆には互いの関係を結びつける為の守るべく規範があ
る。規範を守るべく常に「らしく」見せねばならない、これが結構しんどいのだ、規範
に拘束、束縛される。規範から離れた勝手、自由はない。その犬を通じて「我輩は
犬である。」となると、どうも名作とは成らぬようである。犬には呼び名がある、名無
しは野良犬である。野良犬では人と深く関われない。人と関わればどうあっても,
 擬人化された犬となる。そして絆、規範から開放された平和で穏やかな自由な生活
 家族皆平等の家庭での犬、こうした犬の話は、ママゴト遊びの独り言みたいで結局
が絵空事の話となり、有り得ない話となり名作とはほど遠いものとなる。     .

* 犬は絆の世界で古来から生きてきたのです。過って野生であった頃、厳しい自然の環境の中
独り生きて行くことは大変な苦難が伴い、よって群れを成し、群れとの絆に結ばれた社会的順位
制度の中でその規範を守り生き続けて来ました。ですから人に、絆、規範を奪われたと云った方
が良いかと思います。そして新たに人との生活を共にする絆が生じたのです。           .
  犬は自ら絆を断ち切ることはありません。厳しい群れの絆の世界が良いのです。安らぐのです。
自由の世界は孤独で戦い続けなければならぬ世界です。擬人化され人間の言語世界に勝手に
 引き込まれ戸惑っているのに、「犬は言葉が理解出きる」と溺愛の言葉を押し付けられています。
 犬は犬らしく、人は人らしく飼主らしくある世界が良いのです。劣勢は優勢に席を譲る。社会的順位
                                     のある世界の方が安心して暮せるのです。

犬には漱石の猫のように、太平の境地に入りて死ぬなどとても出来そうもない。 .
犬は人の世の煩悩の中に、人と伴に生き、煩悩から逃れられない、逃れない。人は
 誰でも、お釈迦様や偉いお坊さん以外、煩悩のまま死ぬ。だから覚めた目で煩悩の
 世界を視ることは出来そうもない。。ましてや犬には到底出来るはずがない。喚き、.
                    騒ぎ、モガキ、事切れるまで生きようとするでしょう。。
やはり猫が良い。 「我輩は猫である」が良い。  以上。





   富士山 30a


                                  







犬はトマトを食べません。でも、飼い主次第で食べる犬もいます。
トマトを好きで食べのではない、主人の気持に添ったまでなのです。






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                                Bowhouse HP 管理者 山田 實




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